【書評】これからの「正義」の話をしよう

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記念すべきBookHolic第一弾の書評として私が選んだのは『これからの「正義」の話をしよう-今を生き延びるための哲学(マイケル・サンデル)』である。
初版はおよそ9年前、哲学の浸透していないこの日本で、哲学書が大ベストセラーとなり大きな話題を呼んだことを覚えている方も多いのではないだろうか。私はこの本をすべての人に読んでほしいと願っているし、また読むべきだと信じてやまない。だから少しでも興味を持ってもらうべく、まずはこの本について勝手にPRする。(私は一体何様で、サンデル氏のなんなのであろうか。)
 著者であるマイケル・サンデル氏は名門ハーバード大学の教授である。彼が同大学で受け持つ「正義」という講義(アメリカなので恐らく「Justice」、違ったらビビる)は熱狂的な人気を誇り、その人気ぶりから同大学が初めて講義の一般公開に踏み切るほどであった。またその様子は全米でテレビ放送された。そんな伝説的な講義の内容を書籍化したのがこの1冊、「これからの正義の話をしよう」だ。 この情報だけで好奇心をくすぐるには十分だと思われるがそれだけではない。この日本における最高峰の教育機関である東京大学のキャンパス内にある書店、いわば東大生御用達の書店で今なお歴代販売部数No.1の座に輝いているのがこの1冊だ。 どうだろう。もうこのブログをとっとと閉じてAmazonでも開いてこの本買いに行っちゃうかんね!なんて思ってるのではないだろうか。それでいい、とにかく私はこの本をいろんな人に読んでもらいたいのだ。いや、よくない。せっかくなので最後までお付き合い頂けたら幸いである。


社会における正義とは何か?この漠然とした、しかし社会に参加する全ての人間が考えなくてはならないこの問題を様々な学説、事例、世論を取り上げ追及していく。 当たり前だがこの問題に正解はない。先進国といわれる豊かで平和な一国の内部にすら主義主張の違いは生まれる。人はそれぞれだからと諦めることは簡単だが、考えることをやめてはならない。ではどう考えるべきか、その考えの根拠は何か、異なる主張が対立したときはどのような議論が有効か。サンデル氏は本書を通じて我々に考える力を与えてくれる。
 ここからが本書の最重要ポイントである。 正義を追及するアプローチは以下の3つであるとサンデル氏は説明する。① 幸福の最大化 ② 自由の尊重 ③ 美徳の促進 

本書ではまず「幸福の最大化」という視点から正義を考察していく。これはジェレミ・ベンサムが提唱した功利主義-最大幸福原理に基づくものだ。ベンサムが主張した「最大多数の最大幸福」というフレーズに聞き覚えのある方も多いだろう。快楽と苦痛は量的に計量可能であるという考えのもと、社会全体の快楽(幸福)の最大化を追求することが社会の在り方として望ましいとされる。ここでサンデルは読者に暴走列車の思考実験を仕掛けてくる。内容はこうだ。
“あなたはブレーキのきかなくなった列車を運転している。先の線路には2本の道しかない。一方には5人の人間がいる、もう一方には1人の人間がいる。あなたはどっちに進路をとる?”多くの人が1人の人間がいる線路へ進路をとるだろう。どちらかしか選べないのであれば少しでも被害を抑えたいと思うであろうから。功利主義も当然その判断をくだす。ではシチュエーションがこう変わったらどうだろう。
“あなたはブレーキのきかない暴走列車を線路の上から見ている。今度は道は一本しかない。そしてその道の先には5人の人間がいる。しかしあなたの隣には1人の人間がいる。その人間を線路に落とすことでその者は死ぬが電車を確実に止められるものとする。あなたならどうする?(自分が落ちても電車は止められないこととする)”この問題は先の問題と大きく異なり、明確な殺人行為が含まれる。倫理的観点が介入することで問題が複雑化してしまっているが、本質は前の問いと変わらない。功利主義では隣の人間を落とす行為が正解とされる。5人が死ぬより1人の死で済むのであれば後者の方が全体の幸福の総和は大きいのである。功利主義の最大の弱点は時に個人の権利が尊重されないことである。しかし現在の民主主義の基礎には功利主義の原理が含まれているとされている。※そうではないという説もあり。
 次の正義へのアプローチは「自由の尊重」である。自由の尊重に関しては異なる複数の主張が取り上げられている。リバタリアニズム(自由至上主義)とカント、ロールズの主張である。 最初に論じられるのはリバタリアニズム(自由至上主義)である。彼らリバタリアンの根本原理は自己所有権である。政府や制度でこの自己所有権を侵害することを彼らは批判する。同姓婚禁止、売春の禁止などこれらの制度は個人の自由を侵害していると彼らは主張する。彼らによれば代理出産や臓器売買も自由に行われるべきであるという。しかしそういった自由は本当に自由なのか、なぜなら人間は生まれながらに平等ではないという問題が残る。臓器売買や代理出産でしかお金を稼ぐ選択肢を持たない者にとってそれは自由の尊重と言ってよいのかとサンデル氏は疑問視する。 次に「自由の尊重」としてカントとロールズが取り上げられる。カントは自由を尊重する立場から功利主義を強く批判する。しかしカントの主張はリバタリアニズムの自由の尊重とも異なる。カントの哲学は非常に難解とされているが、本書ではサンデル氏が可能な限り簡潔に伝えてくれている。ロールズは「無知のベール」という考え方を用いた。人々が無知のベール被り、才能や生まれた環境と乖離し平等的な視点で見たとき、人々は基本的自由を全ての人に平等に与えるというものだ。カントとロールズによる自由の尊重はリバタリアニズムと異なり我々が親しみやすい道徳的な価値観を内包しているように見える。
論点は謝罪と賠償へ移行していく。共同体において、過去や他者が犯した過ちを謝罪する義務はあるのか?というものだ。ナチスホロコーストや日本の従軍慰安婦問題などが例に挙げられる。ここでは連帯責任やコミュニティへの忠誠を考察している。自由の尊重の立場はこう主張する。個人が負うべき責務は自己によるもののみであり、他者についてや自己の力の及ばない事象に対して負うべき責任はない、と。至極最もに見える。だがこの考えに異を唱える主張がある。我々は何らかのコミュニティに属した上での個人であり、完全に独立した個人という存在を否定するというものだ。これをコミュニタリアニズム(共同体主義)という。コミュニタリアンの一人であるマッキンタイアの言葉が引用されているのだが、これが実に印象に残っている。”我々は過去を持って生まれてくる”というのだ。コミュニタリアンによれば共同体は歴史にも連帯責任を負う。だからこそ自分の属するコミュニティの共通善について考えることが何よりも重要なのである。これこそが最後のアプローチ「美徳の促進」だ。サンデル氏は主張する。公正な社会には強いコミュニティ意識が必要である。また全体への献身、共通善の意識を持つ個人を育てる仕組みを考えなくてはいけない、と。そして自由市場には不平等を巡る問題を含め道徳的な限界があると警鐘を鳴らすのだ。

 

読み終えて。

 民主化が実現しテクノロジーが革新を遂げ、豊かで平和な社会が広がってからまだ日は浅い。これまでの人間社会は今ほど自由ではなかった。この国では長らく封建社会の歴史が続いた。今人々が個人の自由の尊重に執着しているように見受けられるのはそういった歴史の反動ではないだろうかと考えることがしばしばある。そして自由を享受し、その幸福を知った我々は今、その自由が損害されることにひどく神経質になっているのだ。また昨今の革新的な進歩は自由によりもたらされた恩恵だと信じてもいるだろう。私も自由を信奉する、また自由の持つ効力は絶大なものだと思う。だが本書でも議論のある通り、完全なる自由の尊重には道徳的な欠陥が生じるような気がしてならない。自由を侵害するのではなく、コミュニティの絆を深め共通善を醸成することで自由の暴走を自粛させる、そんなサンデル氏の主張には妙な説得力と心地よさを感じずにはいられない。
この先社会は更に飛躍的な進化を遂げるだろう。世界の生産の全てが自動化され、人間は娯楽を享受するだけのユートピアが訪れるというSFアニメのような未来予想図が真剣に語られる時代になった。人間の欲望に際限はない、そして人間は堕落する生き物だ。ユートピアが訪れた時に人間は愛すべき生物でいられるのだろうか?思考を止めてはいけない、人間が生きる幸福な社会は自分達の手で創造しなくてはならない。そこらの安居酒屋で、オシャレなカフェで、インスタ映えを気にしながらだって構わない、これからの正義の話をしよう。

 

 

 

*次回更新は3月25日(月)です*