【書評】カンガルー日和
こんにちは!ごーいわです。
恋バナじゃ!恋バナじゃー!
失礼、取り乱してしまった。30過ぎたおっさんが一人でブログで恋バナ的持論を展開するというのはもはや地獄である。
だが私に恐れるものなどない、失うものがないのだから。(すでになんか発言がイタイのは内緒だ)
とゆーことで、今回特別記事と題して当ブログの私の記事としては初めて小説を紹介したい。
紹介するのは村上春樹氏の「カンガルー日和」である。本作は俗に言うショートショートだ。
村上春樹氏と言えば説明不要のノーベル賞候補の純文学作家である。
数多くの著名な長編大作を生み出している氏であるが、あえて私はこのショートショートをオススメしたい。
村上氏は好き嫌いがはっきり分かれることでも有名な気がする。どこか重たい独特な表現、時に過激な性描写、アメリカ文化崇拝、そういった偏った作風が好き嫌いに影響してるように思える。
本書の各短編にも村上節がふんだんに散りばめられめているが、短編だからこそそれでお腹一杯になることはないだろう。
なのでどうか村上長編にアレルギーがある人も是非読んでみていただきたい。
本書内の18作ある短編の中から私の特別お気に入りを紹介したい。
「4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて」
という作品である。
そう、今はまさに4月。時期的にもピッタリ。
恋バナの始まりじゃあっ!!
本作はたった8ページの物語。だからこそ要約することが不可能に思われる。なんとしても本編を読んでいただきたい。
とはいえ読んだことない方も当然いらっしゃると思うので強引にあらすじをまとめてみる。
“4月のある晴れた朝、原宿の裏通りで僕は100パーセントの女の子とすれ違う。”
物語はこの書き出しから始まる。
その子は容姿が完璧なわけでもなく、センスが突出してるわけでもない。それでも「僕」にとって100パーセントな女の子であることはわかっている。
胸は高鳴り、口は干からびる程の渇きを覚える。そして彼女に声を掛けれないまますれ違い、終わる。
僕は後悔とともに振り返る、彼女に「こんな話」を話し掛けるべきだったと…
100パーセントの女の子とすれ違う、これって端的に一目惚れと捉えていいんでしょうか?シチュエーションを考慮しても、なんとなくその解釈がしっくり来るような気はする。
それはさておき私がこの作品に惹かれて止まないのは「100パーセントの女の子」という表現にこそ原因がある。著者の意図などわからない。私は一人勝手にこの表現に囚われてしまったようだ。
「100パーセントの女の子」(100パーセントの男)、皆さんならこれをどう定義するでしょう?(本作のような一目惚れ的なシチュエーションに限らず考えていただきたい。)
当人に見返りがあってこそ、つまりその相手と結ばれてこそ「100パーセントの女の子」という理屈が自然だろうか?
逆にどこまでも主観的に考えるなら、結ばれるか否かの終着はどうでもいいことで、己自身が相手を「100パーセントの女の子」と想うことに疑いがなければ「100パーセントの女の子」と言えるのだろうか?
私は後者を支持したい。(後者が必ずしも相手と結ばれないとは限らないという点には十分留意してほしい。)
もちろんそこには悲劇と言うべき苦悩がつきまとうこともあるだろう。なんせ前提条件で一方通行をも肯定しているのだから。
自覚ある一方通行は恋愛における最たる拷問とも言える。
「100パーセントの女の子」
時にそれは純粋に自分のことを絶対に好きにならない相手かもしれない。
時にそれは結ばれたのちに一方的に自分を捨てる相手かもしれない。
時にそれは出会った時点で別にパートナーを確立してる相手かもしれない。
時にそれは自分が別にパートナーを確立したのちに出会うかもしれない。
それでも「100パーセントの女の子」への想いを自らの意思で貫くことに何らかの尊さを感じてしまうのだ。
とまぁ大分飛躍して考えている気がするが本作を読むとこんな事に想い巡らせてしまう。
一目惚れ、職場の同僚、学校の同級生、サークル仲間、あるいは恋人関係、そんな中で抱く確かな恋愛感情が実らなかった経験は誰しもお持ちだろう。
実らないまま抱き続けるか次へ進むかはさておき、その時「100パーセントの女の子」と想えることがとても素敵な事なのだと思う。
本作以外にも本書「カンガルー日和」にはあれこれ想いを馳せる名作短編が詰まっている。
せっかくの村上作品なのだ。
ジャズバーがいいだろうか、ホテルのラウンジなんかも洒落てる、これからの季節ビールとサンドイッチを手に昼下がりの公園が気持ちいいかもしれない。
村上流に色んなシチュエーションで何度でも読んでみていただきたい。
もしかしたらあなたの100%の女の子に出会えるかもしれない。
…頼むぞ、村上春樹。
|